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画面右上の画像は上記の号に載る円谷の肖像で、恐らく藤田氏が描いたと思われる。円谷の顔を知る手掛かりは今のところこれしか私にはない。顔付きをうまく捉えているのではと推量する。好みのタイプという訳ではないが(笑)、私はどこかしら好感を覚える顔だ。 三年程前、私は都内のある場所で「アドニス」の全体の4割程に当たる号を閲覧し、写真をかなりの数コピーすることができた。 更に今から半月程前、やはり都内のさる所で、全体の8割程に当たる号を閲覧し、数はそう多くはなかったが、気に入った何点かの写真をコピーすることができた。中味は見ていないが、写真のコピーだけ入手できた号を加えると、「アドニス」でまだ私がまったく中味を知らないのは、3号分になる。 被写体の男たちの裸にそっと寄り添い、いとおしみ、生(き)の男たちの持ち味を無理なく引き出す、そんな円谷の写真の味わいがよく表れていると私は思う。 ちなみに、石川貴一氏が編集し発行している耽美文芸誌「薔薇窗」の、2005年秋号(12号)、2006年秋号(14号)、2007年春号(15号)、2007年秋号(16号)には詳細な《「アドニス」総目次》が載っている。 この号を見ると、「本会創立二周年記念パーティ開催」という記事があり、日時が、昭和36年10月29(日)と書かれている。これから判断すると、「同好」は昭和34(1959)年10月頃創刊されたと思われる。「アドニス」の創刊より7年ほど後ということになる。何号まで刊行されていたかは、現時点では不明だ。主宰者は毛利晴一。(伏見憲明著『ゲイという「経験」』増補版の中の「ゲイの考古学」参照)。(ポット出版 2004年刊)。 画面右三段目の画像は、上記の私が所持している号に載る写真だ。私が所蔵している円谷のアルバムの中に、この写真とぴたり同じものを含め、同じこのモデルが様々なポーズをしたものが130枚ほど貼られている一冊がある。私自身は特にそそられる男というのではないが(笑)、恐らく円谷の気に入りのモデルの一人だったのだろう。ちなみに、「同好」のこの号には男の裸の写真が10点載っているが、すべて円谷が撮ったものと思われる。 私は2007年の10月、主に円谷順一に関連したことを調べるために、大阪に数日滞在した。市役所や写真店、スナックなどに足を運んだ。残念ながらこれといった大きな成果は得られなかったが。地元の大阪のゲイの人々でさえ円谷の名を知る人はほとんどいなかった。 同じ大阪人として、毛利晴一と円谷は相当親しい間柄だったに違いないと私は推測した。私が所持している上記の号に、「同好」の「会事務所見取図」が載っていて、大阪市浪速区元町二丁目と住所が書かれ、更にブリキ屋二階と書かれている。大阪に滞在中、私はここにも行ってみた。地下鉄難波駅に近かった。が、当のブリキ屋が見つかるはずもなかった。昭和36年の時点から45年以上経っていたのだから。街はどんどん変化しているのだ。 ビルの立ち並ぶ大都会の真ん中に、かつて、同性愛者のための会員誌を発行し、会員たちがひそやかに訪れる部屋があったことが、何やら幻妖なことにさえ思えた。 (「同好」や毛利晴一などに関しては、伊藤文学氏のブログ、2007年11月27日『「偉大なる構想」は夢と消えた!』、2007年11月29日「古いゲイ雑誌『同好』を読んで思うこと」と2007年12月1日「同性愛者の先達の思いは?」参照) (「同好」を所持されている方、会員だった方など、「同好」について情報をお持ちの方、連絡いただけたらうれしく思います) 私が所持している中で一番若い4号は1964(昭和39)年10月刊、一番遅い31号は1967(昭和42)年1月刊。創刊と終刊がいつだったかは分からない。 11号の最後のページの編集者が書いたと思われる箇所に、<高倉一>の名が記され、<編集こぼれ話>の欄の最後に<T>とあることなどから、「薔薇」は、「風俗奇譚」の編集長で、「風俗資料館」(現在地は東京都新宿区)の初代館長でもあった高倉一(たかくら・はじめ)(1914〜2004)が編集し刊行していたと思われる。 画面右三段目の画像は、左手下段「薔薇 26」(1966年8月号)に載っているものだ。このモデルは仁科勝が編集した写真集「脱いだ男たち」(昭和47<1972>年4月 第二書房刊)にも載っている。 「脱いだ男たち」は前書きによれば、K氏が撮った写真を編集したということになっているが、私はK氏とは恐らく仁科本人ではないかと考える。私が所蔵しているアルバムの中の一冊にも同じモデルが載っているのだが、そのアルバムは仁科が撮影したものだろうと推測されることにもよるが。そうした点から、右三段目の画像は仁科が撮影したものだろうと私は思う。 また、「脱いだ男たち」には明らかに円谷が撮ったと思える写真も載っている。これらを総合すると、「脱いだ男たち」の大部分は、仁科と円谷が撮影したものというのが今の私の判断だ。 仁科勝は最初に記した、円谷順一の追悼文を書いた甲斐久と同一人物である。更に川居孝雄という名前も用いていたと思われる。 右手一番下の画像は、上記「薔薇」31号に載っている。私が所蔵しているアルバムの中に、今のところ同じモデルが見つからないこともあり断言はできないが、恐らく円谷の写真だろう。締まった尻と太股が色っぽく悩ましい(笑)。 円谷順一は、昭和20年代の後半から男の裸体を撮り始めたと考えられる。これと目を付けた男たちに、警戒心や威圧感を与えることなく、自身のカメラの前にその裸を晒させることができる稀(まれ)な才能をもった人物だったようだ。裸の男たちの前で、写真家としての自己を限りなく無に近づけ、いわば男たちの裸身の中に自己を少しずつ溶け込ませることで、写真という形によって、被写体と円谷自身を永遠化するというような・・・。 円谷の写真を見ていてびっくりするのは、モデルの男たちの男根の大半が、申し合わせたように大振りで、しかも形よく隆々と反り返っていることだ。当然ながらそうした写真が、例えば依頼者から望まれるからということもあるだろう。或いは、そうではない写真は現像しなかったということもあるかもしれない(笑)。いずれにしろ、そこに生身(なまみ)の円谷の欲望の在り処(か)とこだわりの一つを私は感じる。 最初に触れた「薔薇族」第3号の藤田竜氏の文章によると、昭和45(1970)年の秋、東京での盗難事件がきっかけで、円谷の7万枚もの数のネガや厖大な数の作品が警察に没収されたという。私は、ドイツ生まれで、イタリアのシチリア島の少年たちを撮った写真家ヴィルヘルム・フォン・グローデン(1856〜1931)を連想する。当時のイタリアのファシスト政権によって、彼の数多くのネガやプリントが没収され、破壊されたということだ。私は一面、円谷を日本のグローデンとも呼びたくなる。実際に円谷がグローデンの写真を見たことがあるかどうかは不明だが。 それはともかく、グローデンがヨーロッパにおける男性ヌード写真の開拓者(パイオニア)であったように、円谷順一は日本における、殊(こと)にエロス(欲情)と真正面に向き合った男性ヌード写真の開拓者だったのは間違いないだろう。波賀九郎(はが・くろう)(1920〜2002)以上に、果敢に自己放棄的に没入していく開拓者だったかもしれない。(当ブログ 「アートに欲情しよう!その7 波賀九郎の巻」参照) 「アドニス」、「同好」、「薔薇」に大半の写真を提供しているにもかかわらず、誌面に円谷順一の名前はまったく記されていないと思われる。円谷本人が名前を出すことを望まなかったからか、編集者の側が様々な配慮から出さなかったのかその辺りは不明だ。いずれにしても、文章作品の作者の名前が明記されているのと対照的だ。私には、こうした《エロい》写真を撮る写真家に対し、どこまで意識したかはともかく、編集者側に軽視する感覚があったのではとも考える。 この時代の、ひいては現代でも完全には払拭(ふっしょく)されていない、男の裸の写真に対する認識が反映していたのだろう。 私は円谷順一について、これまでにそれなりの分量書き溜めていたが、材料不足もあって中断していた。今回、「アドニス」の多くの号を閲覧できたことをきっかけに、再び書き継ごうと思う。ただ、例えば大事な伝記的な事実が不明なままなことに変わりはないのだが。 すっかり長くなってしまったが、最後に書いておこう。 警察に没収されてしまった上記の大量のネガや作品は、今どこにどう仕舞われているのだろう。恐らく刑法の猥褻(わいせつ)物の頒布や販売の嫌疑で押収されたのだろう。「わいせつ」という取り締まる側の恣意(しい)でどのようにも適用できる「罪」で。 私は円谷順一の数多くの写真を見れば見るほど、猥褻などと言って貶(おとし)められ蔑視されるものとは対極に位置するものだと強く感じる。 人間としての男たちの根源にある欲情や生理と真直ぐ向き合い、あるがままの姿をひるむことなく写真に移し替える。混じり気がなく、むしろいさぎよい清々(すがすが)しさや、どこかしら神々しささえ覚える。 没収されてからすでに40年もの歳月が流れている。稀有(けう)で大事な文化遺産として、例えば恵比寿にある東京都写真美術館で保管し、研究整理し、いずれは閲覧できないだろうか。何らかの形の展示も可能だろう。それでこそ、成熟した本物の大人の国と言えるのではないか。 今は単なる夢想にすぎないかもしれない。が、いつか現実になる日が来るかもしれない、と私は思う。 (2010.4.24) (追記) 本ブログを書いてから後、私は円谷順一に関して新たな事実をいくつか得ることができた。まず一つは、本名の「円谷」の読み方が、「えんや」ではなく「えんたに」だったことだ(まず間違いないと思う)。亡くなった当時、大阪府枚方(ひらかた)市に住んでいたことが分かったので、国会図書館で主に昭和40年代の電話帳を調べた結果分かった。(電話帳に載っていること自体に驚いたが(笑))。 「えんや」とか「つぶらや」などの説もあったが、恐らく円谷本人は、生前いろいろな呼び方をされても敢えて訂正したり、否定したりしなかったのだろうと思う。私自身、私の所持しているネガフィルムのケースに「エンヤ」とカタカナで書かれているものがあることもあって(書き手が誰かは不明だが)、「えんや」だろうと考えていた。 ちなみに、「円谷順一」という名前自体は、以前の「薔薇族」や「青年画報」(ともに第二書房刊)の誌面の見出しなどにも何度か用いられている。ただ、振りがなが振られていないため、どう読むのかが分からなかった。 更に、彼は枚方市内で写真店を経営し、写真の現像も行っていたことが判明した。膨大(ぼうだい)な量のフィルムをどのようにして現像したのか、中味が中味だからよほど親しい写真店の主(あるじ)がいたのだろうな、などとずっと考えていたのだが、自らの手で行っていたのだ。大きな謎が解けた気がする。 こうした事実を踏まえ、再び枚方を訪れようと今私は考えている。もっと幾つかのことが明らかになるのではという期待がある。それらをもとに、円谷順一の解明に向けて少しでも近付こうと思う。 (藤田竜氏を始め何人かの方に教えていただくことで、追記を書くことができました。謝意を表します) (2010.6.1) |
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