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zoom RSS 《伏見憲明小説園》を歩く

<<   作成日時 : 2011/08/29 00:19   >>

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(その1)
画像伏見憲明(ふしみ・のりあき)氏(1963〜)の小説第四作『百年の憂鬱』(「すばる」《集英社刊》2011年9月号)を読んだことを契機に、作者がこれまに発表した小説作品全四作を再読した。
読み終えてまず思い浮かんだのは、四作全体が起承転結の形になっているということだった。第四作目の『百年の憂鬱』の中に、「恋は他人からすると、退屈な起承転結だ」(P.65)という一文があるが、作者自身ある時点で、この四語の熟語で全四作をなにがしか意識することがあったかもしれない。
 「起」に当たる第一作『魔女の息子』(文藝<河出書房新社刊>2003年冬号<文藝賞受賞>)は、これが作者にとって最初の小説作品だということに不思議な感を覚えるくらい、作品の組み立て、場面の転換、言葉の用い方をはじめ全体に熟達した高い出来栄えだ。作者40歳の作ということだが、素地に加え、それまでにゲイ・ライターとして培(つちか)った社会、家族、性などに対する認識や感受、表現、技(わざ)などの一切が背景としてあったがために、可能になったのだろうと思う。
 語り手の「僕」(40歳近いフリーライター)は、ぴたりかどうかはともかくおおよそ作者自身と重なる人物と考えていいだろう。場面の構成は、「僕」の体験や思考に即しつつ、回想の場面を別にすると、ほぼ時間の流れに沿っていると考えていいだろう。
 作品全体の流れを大きく捉えると、「僕」のハッテン旅館における男たちとの性体験の場と、家族、仕事先などで女性たちを含め、ゲイ以外の他者と関わる場が交互に展開する。性愛(ゲイとしての)に関わる私的な自己と、そういう自己を取り巻く社会など公的なものの一切(両者の繋ぎ目としての家族も含めると)の双方に対する、作者の長年にわたる並々ならぬ言わば複眼的な考察や知見が、新人離れした作品の組み立てに生かされたのではないかと私(荻崎)には思える。
 異性愛を前提とすることに何の疑念を抱くことなく構築されている、この社会の総体に対する違和感や異議、齟齬や憤りなどの累積した思いが作者の根底にあって、こうした社会の有り様(よう)とは別種の構築物を、手中にしている認識と言葉によって小説という形で築きたかったのではないだろうか。
 更に、そうすることで「これ以上ないとも思われる虚無」(P.349)やその遠い先に見え隠れる死とも対抗したかった・・・。
 同号に載る受賞の言葉、「けれど、この小説は僕にとって、どうしても書かなければならないものでした。そうしなければ人生の後半を生きていくことは叶わないという切迫した思いがあったのです」は、上記のそうした事柄と関連するのではと私は推測する。

 「そこにはもはや、愛も憎しみも痛みも安寧も虚勢も不安もそして快楽さえも存在しないように思われた。心とからだは無言のものと和解した」(P.353)。本作全体の中で、私はこの文章に最も惹かれた。
 「僕」がハッテン旅館で、ラッシュなどを用い何人もの男たちと同時に絡むなかで感受した、言わば欲情の極地だ。
 果たして快楽までも存在しなくなるのかどうか、今の私はまだ留保したい(笑)。それと、ラッシュなど薬物に助けられないで、欲情と快楽の果ての果てまで行きたいというのが私自身の長年の勝手な願望だ(笑)。

(2011.8.29) 
 

 

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