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zoom RSS 《伏見憲明小説園》を歩く

<<   作成日時 : 2011/09/10 01:16   >>

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(その3)
画像「起承転結」の「転」に当たる、伏見憲明(ふしみ・のりあき)氏(1963〜)の小説第三作『桜草団地一街区  爪を嚙む女』(「すばる」《集英社刊》2009年8月号)は、「転」にふさわしく、第一、二作とはがらりと様相を変えている。本ブログのタイトル<園>に重ねると、園内のこれまでは気づかなかった隠れ道ということになるかもしれない。
 例えば、本作にはゲイの人物は(少なくとも表向きは)一人も登場しない。これは明らかに始めから作者が意図した結果だろう。作者は前二作とは異なる、異性愛者たちの物語を仕上げた。作風の幅を広げようという意図もあったと考えられる。
 語り手の貴子(38歳。未婚)は、表題の団地に老齢の母親と二人で暮らし、現在は、同じ団地の住人をクライアント(顧客)とするホームヘルパーをしている。本作のもう一人の主要人物民子は、貴子とは幼なじみの上に、同じ中学時代の音楽仲間。その民子は今やロック歌手TAAKOとして成功している。本作には、総じて貴子の視点からの、民子に対する嫉妬や阿諛(あゆ)、葛藤や失意など時にどす黒いまでの心理や感情が渦巻き、吹き荒れている。
 前二作と同様、全体を大きく捉えると、民子に絡んだ箇所と貴子の仕事に関わる箇所という、内実の異なる場面が交互に進行するが、作品のあちこちに言わば毒が仕組まれ、第一作よりはるかに濃厚な「凄(すご)み」に満ちている。(毒という語は本作の中でも何度か用いられている)。
 作品の本筋からはそれているが、私(荻崎)には印象の強い光景がある。棟は違うが貴子と同じ団地に住む女がベランダから飛び降りる。貴子の顧客の一人の老女(内海香代)と貴子がその女の夫に知らせようとその部屋に行く。妻の異変を告げられたにもかかわらず、老いた夫は彼女たちに視線を向けることもせず、長い沈黙の後、「そうですか…」とだけつぶやく。
 この老人(山川氏)からは、内側にただならぬ闇を抱えているような凄みが伝わってくる。上記の<少なくとも表向きは>は、私がこの山川氏にどこかゲイ的なたたずまいを感じるからだ。あるいは作者も、そのことになにがしか意識的だったかもしれない。
 作品の終り近く、脳梗塞で亡くなる内海香代の姿からは、人の生活と背中合わせになった不条理や哀しみがひたひた打ち寄せてくる。第二作の聡から伝わってくる哀しさとはまた別種の・・・。
 「矛盾も理不尽も不公平も悪意もなにもかも、消化しきれないままに腹にしまい込んで、いつかそれを今生へのテロで爆発させてやるのだ」(P.101)
 これは内海香代の葬儀で、貴子が香代の遺影を前にした時の想念だが、私には本作の中で最も赤裸な迫力を感じる文章だ。

明神君は男っぽさと色っぽさを合わせ持ついい男だ。ゲイではないのが惜しまれる(笑)。彼は貴子やTAAKOと同じ中学の同級生で、バレー部のエースでもあった。繁盛する居酒屋の店主をしているが、バツイチで元の妻のところに息子が一人いるという設定だ。がっちりと締まったいい体をしている。
 貴子は彼に惹かれているが、彼には気はなく、明神君の欲望の対象はTAAKOの方だ。またしても貴子はTAAKOを恨むしかない。

  視点が変わるが、本作には比喩、中でも暗喩(隠喩)が多用されている。
「記憶のかけらが頭蓋骨からぽろぽろとこぼれ落ちる」(P.35)、「私は腹の中でとぐろを巻く蛇を飼いならし」(P.42)、「履歴書に木枯らしが吹く三十代の限界に」(P.45)、「傷ついている人ほど自分の痛みの囚人になって、その檻の周囲を見渡すことができない」(P.71)、「自分の欲望を観音開きにした若い季節」(P.96)。
これらはその一例だ。例えば、手に取っては確かめられない抽象的なものを、あたかも具体的な物質のように見なし言い表すことで、表現の地平を広げる。
 言葉の伝統的な有り様(よう)や秩序にひびを入れたり、それらを意図的に組み替えることで、新たな言葉と認識の姿を出現させる。読み手の側は、目新しく意表をついた言い回しの妙とともに、それらを感受する・・・。
 ただ、伏見作品の場合、特に本作には顕著だが、そうした暗喩表現の一般的な働きを越えて、もっと切迫した意味合いを私は感じる。(その1)でも触れたこととつながるが、暗喩表現を武器の一つにして、やや大仰に響くかもしれないが、異性愛を当然の前提とするこの社会の総体と連携する言葉(日本語)の網の目を解(ほど)き、あわよくば、現実の社会の有り様(よう)を新たなものに組み替えたい。敢えて異性愛者たちの生活空間を取り上げることで、叶うなら、旧来の社会に「引導を渡」(P.82)す・・・。
本作に漂うどこかしら不穏な空気は、そんな<妄想>を私に抱かせる。
そうした意味合いで、本作には、三島由紀夫(1925〜1970)の、暗喩を含め警句(アフォリズム)的な表現を多用した『禁色』(1953年)とどこかしら共通するものを私は感じる。(異性愛社会という強固な現実への違和感、嫌悪、苛立ちなどが『禁色』の暗喩や警句的な言い回しの根底に流れていると私には思われる)。
(反面、見方を変えると、暗喩や警句的表現は、作者と登場人物との間の距離から来る<余裕>や<遊び>という視点からも捉えられるかもしれない。三島作品も含め、改めて考えてみたい)
(更に時代も作風も異なるが、当ブログ<『蟹工船』とゲイ・エロス>で小林多喜二(1903〜1933)作『蟹工船』(1929<昭和4>年)の中の直喩(明喩)表現について触れているので、参照してください)
 

 (その1)(その2)でも触れたが、文藝賞の受賞の言葉の中で、自ら「音楽が欠かすことのできない心のビタミンであるように」と記しているように、本作は作者にとって言わば自家薬籠中の世界だろう。
 作者が音楽系の高校を卒業していることにも現われているが、本作には音楽に対する作者の素養と造詣の深さが遺憾なく発揮されているようだ。もしかすると本作の執筆には、私には推測の及ばない深い動機があったのかもしれない。
 最後に一言。
本作は、最後に至り、TAAKOとの積年の葛藤をそれなりに吹っ切った貴子の、後半生に向けた再生の物語とも読めそうだ。

   (2011.9.10)




  

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