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zoom RSS 田中慎弥(たなか・しんや)著『共喰い』を食(は)む

<<   作成日時 : 2012/07/13 16:03   >>

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(その4)
視点が変わるが、本作の特異性の一つは、時間の流れについて作者の執拗なまなざしが感じられることだろう。川辺を流れる時間は、滞ったり、遠回りしたり追い越したり、止めたり殺したりも出来そうになったり、熱で崩れて、溶け出しそうになったり、太ったりしたりと、何かもう一つの物質めいて、川辺の風物や人々の暮らしの中に深く浸透し、それらと溶け合っている。
「欄干に結びつけられていた白い風船に見えていたものに細い首が生え、鷺(さぎ)になって飛び立つ」(P.384)や、「・・・模型のように大きな蜻蛉(とんぼ)が止まり、翅(はね)を震わせて飛び立つ恰好がやはり作り物だったかと一瞬思わせた」(P.399)では、そうした時間の流れの中で生息する川辺の生き物の有り様を作者の目がぴたり射止めている。
「・・・濡れ縁の蝸牛(かたつむり)を見てからいままで、いったい何日経ったのかよく分からないかららしかった。ほんの何時間かのことかもしれない。現に目の前には、まだ蝸牛が這っている。夢の中のことだったろうかと思ったが、アパートから降りてきたところで・・・」(P.404)。この前後の文章は、夢なのか、いややはり現実なのだろうが、時間の流れが混然としてつかめなくなった中で主人公遠馬が立ち往生しているふうな、表現の面では、私が本作全体の中で一番引きつけられる箇所だ。
逡巡の末、遠馬はアパートに住み売春をする女と初めて交わる。父親の円と女は以前から何度となく関係している。遠馬もそのことはよく知っている。遠馬はこの女との交合のさなか、円と同じように女に暴力を振るう。「性器から血を発射したのかと思った。自分の血であり、仁子さんが生まなかった弟か妹の、そして父の血だった。女が父のお古なら、自分自身は、一番新しい父だと感じた」(P.404)。反発し嫌悪しているはずの円との、抜き差しならない一体性や類似を遠馬は思い知らされる。
千種の首を交合の中で絞めたことがきっかけで気まずくなっていたこともあって、欲情のはけ口に遠馬の足はこの売春している女のもとに向き、交わるのだが、その前後やさなかの遠馬の葛藤や迷いの行動や意識、心理が、一種夢遊状態にも似た時間の流れの混乱や錯誤を伴う形で描写されている。
「文芸春秋」の同号に載る受賞者インタビューで作者も述べているが、ここは作者の力が殊(こと)に込められた場面だとわかる。
このインタビューでも語っているが、作者が原文で二回、現代語訳で三回通読したという『源氏物語』の投影を、ほのかなものであれ私は本作全体に感じるが、中でもこうした箇所にそう思う。時間の流れにいやおうもなく曝(さら)され翻弄される中での、人間の行為や心の動きの有り様(よう)を、『源氏物語』が恐らくそうだったように、可能な限り精確にしかも艶やかに言葉に移しかえようとする作者の意思や覚悟がよく現われていると私は感じる。
ちなみに、現代文学では古井由吉(ふるい・よしきち) (1937《昭和12》〜)の、中でも『山躁賦(さんそうふ)』(集英社、1982年刊)や『槿(あさがお)』(福武書店、1983年刊)などとの親近性をどこかしら覚える。

本作の中の会話の部分には、上記のインタビューで田中氏が述べているように、作者の郷里山口県下関の方言が用いられている。
「思いよるそいや。」(遠馬)、「そういう楽しみしかないんじゃっちゃ。」(遠馬)、「どこ行っちょったそか。」(円)、「お前も一口食べりゃよかったそにのう。」(円)、「やらんかったらええやろうがねっちゃ。」(千種)、「ええわけないやろうがっちゃ。」(遠馬)、「なんかねっちゃ。放しっちゃ。」(遠馬)
当然ながら、風土との深い関わりの中で、長い時間かけて熟成した話し言葉だろう。言葉が良質の酒めいて、包み込むようで艶っぽい。中でも、遠馬や円など男たちの話す語尾の響きや語調に私は引かれる。無論、実際に耳にしている訳ではないが(笑)。
既に触れた場面とも重なるが、「なんかねっちゃ。放しっちゃ。」(P.407)と口にする遠馬の言葉は、戯(たわむ)れに自分の足に触れた円の手を、放してくれ、放せよ、という言葉にもかかわらず、何か交合のさなかの睦言(むつごと)めいた響きを私は感じてしまう。遠馬は心外だろうが(笑)。

本作の中で終始重要な位置を占めている「暴力」について改めて考えてみよう。祭りが中止になった大雨の日、社の境内で遠馬を待っていた千種を見つけた円は暴行を加え、強姦する。それを知った仁子によって円は殺害される。自らの暴力性が自らを滅ぼした形だ。円は最後まで、交合の際、女たちに暴力を振るう自分を変えることができなかった。或いは変えようとはしなかった。仁子の手によって殺される時、ひょっとすると抵抗する力を自ら弱め、自分の死を受け入れようとしたのかもしれないとすら、私はふっと思う。
交合の際であれ、一方的に暴力(しかも激しい)を振るわれる女たちにしたら、恐怖や憤り、憎悪の挙句、相手に殺意を覚えるのは避けがたい流れだろう。
上記の私自身の体験からも、もしも交合の際その男から、合意も何もなくもっと手酷い暴力を振るわれたとしたら、到底許しがたく、その相手との関係をそれ以上維持することは到底不可能な上、状況次第では相手に対し殺意すら覚えるのは必至だっただろう。幸いにしてそうした展開にはならなかったが。
交合という特別な場合や相手ではなく、日々の通常の場面で誰かから闇雲に理不尽な暴力を振るわれたとしたら、憎悪も殺意も一段と深いだろうが。

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