荻崎正広World

アクセスカウンタ

zoom RSS 1971年の円谷順一

<<   作成日時 : 2012/10/04 17:16   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 11 / トラックバック 0 / コメント 0

画像1971《昭和46》年は、写真家円谷順一(えんや・じゅんいち)(通称 大阪のおっちゃん。大阪府枚方(ひらかた)市に住む)が亡くなった年だ。(同年10月12日、胃がんにより死去。享年54歳)
同じ年の5月と8月に彼が東京で撮影した写真を、私は今年(2012年)の6月に入手した。写真の裏に、「46.5 東京三社祭」、「46.8 東京 深川祭」と円谷の文字で書かれていてる。三社祭が1枚、深川祭が2枚だ。亡くなる5カ月ほど前の昭和46年5月に浅草で、同じく2カ月ほど前の8月に深川で撮っていたことが分かる。(画面左上段は三社祭、その下段の深川祭は、富岡八幡宮の深川八幡祭り。3年に一度行われる水掛祭りかどうか…)
画像 同時に入手した中に、三社祭を撮ったカラー写真が数十枚ある。 これらは写真の裏に三社祭とは書かれていないが、着ている法被(はっぴ)などから分かる。(右手上段の画像参照)
しかも写真の裏にどれも '71と印が押されているところから、上記と同じ昭和46年の三社祭を撮ったと知れる。ちなみに、これらの写真の裏には他の現像所の名が押されているところから、円谷は自ら写真店を営んでいたものの、カラー写真に関しては、他所にも現像を依頼していたのかもしれない。画像

「薔薇族」(第二書房刊)第3号(1971年11月刊)の「幻の花火 ホモ・ポルノの写真家を悼む」に載る藤田竜(1938〜2011)の文章によると、1970《昭和45》年の秋(だと思われる)、東京での盗難事件がきっかけで、円谷の厖大(ぼうだい)な数の写真(ネガも含め)が警察に没収された。更に円谷自身、何日間か留置された。恐らく猥褻(わいせつ)物の頒布(はんぷ)や販売などの容疑だろう。(円谷は通信販売などの方法も含め、自らの写真を販売していた)
 同文章には、同誌第2号(1971年9月刊)に載る写真の多くは、この事件の出所後に円谷が撮ったものだとも書かれている。ちなみに、右手下段の画像は、私が2007年に入手した円谷のアルバムの中に入っているものだが、ぴたり同じ作品が、この第2号に掲載されている。
画像同じアルバムの中に、同モデルを撮ったカラー写真も何枚かあり、それらの裏にはやはり '71と印が押されているところから、亡くなる1971年の遅くとも夏の間くらいまでに撮られたものだろうと分かる。被写体が私の好みの型(タイプ)ではないのが残念だが(笑)。
 また、以前の当ブログ「円谷順一」探訪行(その5)に載せた、大阪の四天王寺で1月に行われる「どやどや」を撮った作品とぴたり同じものを含め、30枚ほどの同祭りを撮ったカラー写真が、上記の今年6月に入手したものの中に入っていた。(中の一枚に、「四天王寺」と書かれた旗が写っていて、「どやどや」であることは間違いない)
 しかもこれらの写真の裏には、どれにもやはり '71と印が押されている。探訪行(その5)を書いた時点では、このことには気づかなかったが、亡くなる1971年の1月に円谷が地元の裸祭りを撮ったと分かる。
 厖大な量の作品を警察に没収されたことは、自身の中身をそっくり奪い去られたような甚大な痛手を彼に負わせたに違いない。生きる気力を根こそぎされたと感じたかもしれない。
 ただ、そこから彼はもう一度立ち上がったようだ。昭和20年代の後半から20年近く、ほとんど自らのすべてを賭(か)けて撮り続けた男たちの裸の写真を、猥褻などの罪名を着せられ、貶(おとし)められ、葬り去られるのを黙って受け入れることはなんとしてもできなかったに違いない。
 画像亡くなる同じ年、地元の大阪のみならず、福岡(画面左の画像は、7月に行われる博多の祇園山笠)、東京、岡山(2月に行われる西大寺の裸祭り《会陽》<えよう>のモノクロの写真30枚ほども、断定はできないが、1971年に撮った可能性が大)その他、何か憑(つ)かれたように各地で撮影している。撮りつつ、遠くはない自身の死が見え隠れしたのだろうか。殊に7月の博多、8月の深川では、がんによる痛みを押していたのかどうか。被写体の男たちの裸とともに、それらを撮る自身をも、写真という形で永遠化したかったのかもしれない・・・。
ただ、1971年の円谷が、露(あら)わな男たちの裸も撮りつつもどこか抑え気味に見え、更に裸祭りの撮影を増やしているように思われるのは、警察に作品を没収され留置された体験が、癒(いや)しがたく尾を引いていたのかもしれない。と同時に、円谷の深い哀しみが伝わってくるようだ。

 1971年10月12日夜、前記「薔薇族3号」の藤田竜の言葉を引用すれば、《オッチャンは苦しみ抜きながら、ひとりぼっちで亡くなってしまった》
(死亡日、死因、享年などは同号の甲斐久<仁科勝、川居孝雄と同一人物>の文章による)

私(荻崎)は今年(2012年)の8月半ば、警視庁に足を運んだ。上記の1970年秋に円谷が関わった事件に関して、情報公開制度を用いて、事実を少しでも明らかにできないかと考えたためだった。
 没収された写真は今でも保管されているか、もし保管されている場合は、戦後の日本の写真史研究の上で貴重な資料として、また大事な文化遺産として東京都写真美術館に移管できないかなどを、三人の係官を前にして話した。(円谷の名前は出さなかったが、大阪在住で男性ヌードを撮っていたことは伝えた)
三人の係官は冷静に穏やかに対応してくれた。結論的には、没収された写真は既に廃棄されている、また没収や留置にかかわる事件の情報自体は、情報公開制度の対象外だ、と伝えられた。
 全体として、ほぼ予想していた範囲内だったが、事実が明らかになったことで私の中で一区切りをつけることができた。対面が終わり、玄関へと私と連れ立ち見送ってくれた一人の係官は、貴重な研究資料だということは分かると伝えてれた。(当ブログ《「アドニス」「同好」「薔薇」の中の円谷順一》参照)
 入る前、電車が地下鉄桜田門駅が近づくにつれ、正直なところ、疑心暗鬼的に様々な不安が募ったが、終わって警視庁の建物を出ると、ほっと安堵するとともに、この年になって(!)、何かしら度胸がついた感がした(笑)。
 円谷順一が生涯をかけ遺(のこ)してくれた写真群と円谷自身に、ほんの少しは応えることができたかなと思えた。

 ちなみに、警視庁の建物内の玄関近くに、朝倉文夫(1883《明治16》年〜1964《昭和39》年)の「競技前」という立ち姿のかなり大きいブロンズの彫刻が立っている。男根も相応にしっかり造形されている。 受付の女性の係員に聞いたところ、写真撮影は不可とのことだった。さすが警視庁、ガードが堅い(!)

(2012.10.4)

 
 



 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 11
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス ナイス
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
1971年の円谷順一 荻崎正広World/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる