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zoom RSS 長谷川サダオ彷徨(ほうこう) 《補遺》 

<<   作成日時 : 2017/03/25 13:24  

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画像(その2) (最終回) 三島由紀夫と長谷川サダオ 幻より濃い幻の先
長谷川サダオ(1945.8.15〜1999.11.20)は三島由紀夫(1925.1.14〜1970.11.25)に相当惹かれていたようだ。左上段の画像は、当ブログ「長谷川サダオ彷徨(ほうこう) (その2) 男という渦(うず)と天へ」でも触れているが、「薔薇族 増刊号 1982 春の号」(1982《昭和57》年5月刊)『「男」が匂う幻想空間 特異画家・長谷川サダオの部屋』と題された記事の最初のページを撮ったものだ。
 画面左下に、三島由紀夫を描いたと思われる作品が置かれている。
画像
一方、左二段目の画像は、「MLMW(ムルム)」(14号 1979《昭和54》年11月刊 (株)砦出版刊)に載る、「透し彫りの迷宮 唇碑(しんぴ)三島由紀夫」(連載 8)(文・三木良)に、長谷川サダオが描いたイラストだ。楕円形(卵形)の石と思われるものに、三島由紀夫が描かれている。星形のものが置かれていることも含め、上段の画像とよく似ている。顔の向きはやや異なるが、ひょっとすると同じ作品かもしれない。(それともよく似た別の作品なのかどうか・・・)
 ブログ「伊藤文学のひとりごと(長谷川サダオの住んでいた部屋自体が作品だ!)」(2010.4.23)の中で、伊藤氏は左一段目の画像に関連して、「三島由紀夫の写真も飾ってある」と述べているが、左二段目の画像と合わせて考えると、写真ではなく、絵画作品ということになるだろう。(確かに、一見写真風だが・・・)
「透し彫りの迷宮 唇碑(しんぴ)三島由紀夫」は、「MLMW(ムルム)」7号(1978年9月刊)から連載が始まり、私(荻崎)が所持している最後の号の34号(1981年12月刊)でも連載が続いている。この間でも私が所持していない号が相当あり、また連載が何号まで続いたかも不明だ。そのため断言はできないが、連載が続いていた間は、恐らく長谷川サダオがイラストを描いただろうと思われる。(ただ、どの号にも三島由紀夫が描かれている訳ではない)
 (余談だが、文章を書いた三木良は、「回想 回転扉の三島由紀夫」(文春新書 2005年11月刊)などの著書がある堂本正樹氏(1933〜)ではないかと私は推測する。もう何十年も以前だが、「MLMW(ムルム)」に文章を書いていると、氏から直接聞いたことがあり(三島由紀夫に関するものかどうか記憶が定かではないが)、「透し彫りの迷宮・・・」の中味からも(改めて特に読み直してはいないが)、三島由紀夫に身近に接していたから書けるという風な感を受ける)
画像左三段目の画像は、「MLMW(ムルム)」11号(1979年5月刊)に掲載されたもの。三島由紀夫の顔が大きく描かれていて印象的だ。(やはり、星形のものが描かれているが、上一段目、二段目のものも含めヒトデ(海星)のようだ)
 上記「伊藤文学のひとりごと」の中で、「自殺したホテルの部屋にも、卵型の石に描いた三島由紀夫の肖像画も置かれており」と述べられているが、今年(2017年)の二月上旬、長谷川サダオの実兄の方に電話で伺ったところ(六年以上前に電話してから二度目になるが)、三島由紀夫を描いた石は、バンコク(タイ)のホテルではなく、長谷川サダオが住んでいた東京の部屋(中野区野方)にあったとのことだった。(長谷川サダオの死からすでに17年以上が経ち、当時の記憶も必ずしも定かではなくなっているとも言われた。私の電話がつらい記憶に改めて向き合わせる形になったとしたら、申し訳なく思う)
左一段目か二段目の、三島由紀夫を描いた石の作品(両者が同じものか別のものかはともかく)が、恐らく野方の部屋に残されていたのだろうと私は推測する。
この石の作品(最終的にどこに置かれていたかは別にして)を始め、「透し彫りの迷宮 唇碑(しんぴ)三島由紀夫」に、三島に関連した作品を長く描き続けたことも含め、長谷川サダオの三島由紀夫に対する並々ならぬ関心の深さを私は感じる。(三島作品も相当読んでいたのではと思う)
二人に共通するものとして、人が老いていく(取り分け肉体的に)ことへの嫌悪や拒否感の強さを私は感じ取る。(前記「伊藤文学のひとりごと」の中で、伊藤氏も「三島と同じように衰えていく身体を見たくなかったのだろう」と述べている)
 当ブログの前回、「(その1)初期作品の森の中へ」でも記したが、長谷川サダオの場合は、そうした感覚は、彼の楽園幻想や死への親近と表裏をなしていたのではと私は思う。
 一方、三島由紀夫の老いに対する嫌悪の強さは、例えば、「三島さんの老人嫌いは異常なほどで、自分の老いを見、自覚することには耐えられなかった」 (高橋睦郎(1937〜)著『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』(2016年11月 平凡社刊)(P.181)など、生前の三島と親しかった高橋氏によって(高橋氏の他の著書も含め)様々に指摘されている。
三島由紀夫の45歳での自決の一因だっただろうと私は考える。
もう一つ指摘したい。取り分け三島由紀夫に顕著だった事柄として、上記『在りし、在らまほしかりし三島由紀夫』の中で、高橋氏は三島における存在感の希薄を指摘している。
「その存在感の稀薄は言い換えれば、自分がいまここにいるというのは虚妄で、ほんとうはいないのではないかという、冷え冷えとした自らへの疑問です。自分自身を三島さんと並べるのは気が引けますが、同じ傾向が自分にもあるので、よくわかるのです。」(P.164)
「・・・自分はほんとうは存在していないのではないかという根源的恐怖は去らない。この堂々めぐりに四十五歳の三島さんは疲労の限界にあったのではないか」(P.170)
(ちなみに、同書の中で、高橋氏は「私の見るところ、三島さんは基本的に少年愛者でした」(P.162)と述べている。

 三島由紀夫は最後の小説『豊饒の海』の第四巻(最終巻)『天人五衰』を次のような文章で書き終えた。
「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ自分は来てしまったと本多は思った。・・・」
その少し前には「それなら勲もゐなかったことになる・・・(中略)その上、、ひょっとすると、この私ですらも・・・」
こうした言葉を残して、三島は同日(1970.11.25)死地へと向かった。記憶さえもない、私すらいなかったことになる、という表現に、三島の存在感の希薄さの底知れない深さを私は感じる。
 一方、長谷川サダオの場合、そうした存在感の薄さに言及した文章などは今、私には指摘できない。ただ、彼のこの世ならぬ黄金郷、理想郷への思いの深さは、現実の自己の存在を不確かなものと感じる思念と関わりがあったのではないかと私は推測する。
やや視点が変わるが、三島由紀夫の演劇作品に何度か出演した村松英子氏(1938〜)の『三島由紀夫 追想のうた 女優として育てられて』(阪急コミュニケーションズ 2007年10月刊)の中に次のような文章がある。
「この頃から特に三島先生の能への言及が多くなったと思います。「僕は(芸術の)様式として、能楽しか信じない」―フランスの高級新聞『フィガロ』の記者に「あなたの文学のエロスは何?」と聞かれて―「僕の文学のエロスの井戸に棲む蛇は、日本の能です」(P.74〜P.75)
(上記の「この頃」は、『朱雀家の滅亡』(1967年作)の稽古をしている頃だと思われる)
同じ言葉が朝日新聞 2015年9月12日(土)の「be」、「みちのものがたり」に、「1966年夏、三島由紀夫が歩いた山の辺の道」と題した記事の中に引用されている。
「三島に俳優として育てられた村松英子さん(77)によれば、『僕は(芸術の様式として)能しか信じない』が、晩年の先生の口癖でした」

能の中の夢幻能では、前場(まえば)に、この世に存在する人物を思わせる主人公の化身(けしん)が登場し、後場(のちば)に同じ人物の亡霊が登場する形が多い。いずれにしてもすでに亡くなっていて、この世には存在しない人間だ。
存在感の希薄と常に向き合っていた三島は、夢幻能の舞台に登場する主人公のように、自分はすでに亡くなっている人間の化身か亡霊めいたものとしてこの世に生きているのではないかとも思えてならなかったのではと私は思う。
 一方、長谷川サダオが能楽にどのような関心をもっていたか、今の私には分からない。ただ、実際に言葉にしたかどうかは別にして、惹かれていたとしても不思議ではないだろう。

 
 私自身のことを述べさせてもらおう。年少の時分、自身の体が同性である男の体を底の底から欲しがっていると受け受け止めてから(それだけが原因の総てかどうか今でも断言はできないものの)、自分が何かしらこの世と一枚薄い幕を隔てて存在しているふうな、どこか現実感が薄いような、どこかしら亡霊めいたものとして感じられて仕方がなかった。
 その感覚は、生きていく中で、時に濃く感じられたり薄まって感じられたりと一定している訳ではないものの、71歳になった現在でも尾を引いている。心身が長く生きている中で、そうした感覚に慣れてしまったという面もあるのだろう。
小説など自身の著書の中でもそのことは私なりに言葉にした。
 三島由紀夫や長谷川サダオのような文学的、絵画的な能力に見放されていた代わりに、好みの男の生身が欲しくて欲しくて仕方がないという、男の肌身に対する飢えや渇きは底なしだった。いくら男たちの裸と絡み合っても、飢えや渇きが心(しん)から満たされることはなかった。やや大仰ながら、寝ても覚めても男の肌身が欲しかった(!)。
 71歳まで生きたものの、やってもやってもやり足りない思いは少しも変わらない。80際、90歳、100歳を越えて生きられたとしても、この飢えや渇きが根(ね)から潤うことはないだろうことは見え過ぎるほどよく見えている。反面、その飢えや渇きが底の底で私を支え、この世につなぎとめていてくれると思うと、それらがいとおしくなる。
 と同時に、昨日の、あるいは三日前の、あのサウナでの、あの部屋での交合は、本当に現実にあったことなのかと問う思いが薄っすら絡みついてくる感覚にも、何十年間すっかりなじんでしまっているが・・・。
 男の肌身への切りもない色欲(しきよく)を、この先最後の最後まで追い求めた末に、何かに、どこかに到達するのか・・・。何にも、どこにも到達するはずもないのか・・・。
たとえどこにも行き着かないにしても、好みの男たちの肌身という幻を、ひょっとするとこの先ますます濃くなるばかりの幻を、果ての果てまで追い続けるしか私には能がない。
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左四段目と五段目の画像は、今回を含め五回に渡る「長谷川サダオ彷徨」の中で、まだ用いていない中の私が気に入っている作品だ。
四段目は、『長谷川サダオ画集 楽園幻視』(1996年11月 コチスタジオ刊)に掲載され、「薔薇族」279号(1996年4月)の、「ゲイ・サスペンス 仕組まれた罪」の挿絵としても用いられている。
隆々と立てた男根を握る男の顔と体の、線の太い男くささが色情をそそる。
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左五段目は、1990年にイギリスで刊行された『SADAO HASEGAWA paintings and drawings』に載っている作品(Human Candlestick 1983)。
火の付いたロウソクを銜(くわ)え、ぐいと盛り上がり引き締まった尻。かわいげを残す若々しく締まった顔。弾き返しそうな発条(ばね)のある総身。どこを取っても申し分ない。縄の描き方が細やかだ。
改めて、長谷川サダオ作品に登場する相当の数の男たちが湛(たた)える、艶やかな精力と色情の豊かさに打たれる。
私的には、例えば、四段目、五段目のような作品を、60代、70代、80代・・・と更に描き続けてほしかったが・・・。

 最初に想定したよりも長くなってしまい、恐縮です。
 2007年8月に当ブログに書いた『三島由紀夫の内的風景 「荒野」からの声』
(その1)〜(その14)
2014年5月に書いた『「薔薇窗」(ばらまど)掲載(他)の戯曲について(後編)』も参照していただけたらと思います。三島由紀夫作『近代能楽集』(全9作品)についても触れています。

    (2017.3.25)

(追記)
引用したページを5ヵ所、記入しました。(2017.4.2)
 
 


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
確かに、今回のブログは長文で繊細かつ濃い内容ですね。熟読して読解するのに数時間必要です。
同じ空間に存在していても、波長や周波数が合わないでお互いに存在を感じないってありますね。
長谷川氏は、肖像画を描くことで三島氏とつながるのですね。三段目のそれは、三島氏に映画「炎上」の市川雷蔵氏がのりうつったようです。
三島氏の人生は、薔薇族以降のオープンになったゲイ書物とすれ違いになってしまいましたが、あと1年生きていればオープンなゲイ文学をどう感じたでしょう。
荻崎さんが果てまで追い続けてものは、私設美術館に表れているとブログ読者として感じています。四段目の顔の表情の表現、私もいいと思います。
G7
2017/03/30 01:44
G7様
コメントありがとうございます。
ていねいに読んでいただきうれしく思います。
市川雷蔵は思い浮かばなかったので、なるほどと思いました。
確かに三島由紀夫の死は、「薔薇族」の創刊前ですね。これにも、なるほど、面白い指摘だなと感心しました。
荻崎正広
2017/03/31 01:36

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