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zoom RSS 「円谷順一」探訪行

<<   作成日時 : 2010/11/08 17:59   >>

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画像(その1)
2010年10月下旬、私(荻崎)は、円谷順一(えんや・じゅんいち)(通称 大阪のおっちゃん)(1971<昭和46>年10月死去。享年54歳)が亡くなるまで住んでいた大阪府枚方(ひらかた)市を訪れた。京阪電鉄交野(かたの)線の宮之阪駅にごく近い所だった。(ちなみに、宮之阪という駅名は円谷が亡くなる年の6月に、中宮(なかみや)駅から改称されたという)
 円谷はこの地で写真店を営んでいたが、当時の住居は、現在は中華居酒屋とカラオケスナックになっていた。訪れた最初の日は、まったくという位成果はなかった。1969(昭和44)年と2010年現在のこの地の住宅地図を比較し、当時と同じ姓の方を尋ねたが、留守だったり、ことに通りをはさんだ向こう側の家などでは、分からない、店は知っているが本人は知らないという風な答えが返ってきた。住まいはあっても今は誰も住んでいないということもあったかもしれない。円谷の死から40年近く経っているのだから。
 ほとんど何も得られないかもしれない、とやや悲観的になりながらも、翌日もう一度訪れた。前日は留守だったが、円谷の住まいに一番近く、訪れる前からこの方が一番知っているのではと推測していた家の奥さんが、幸いこの日は在宅していた。(表札には書かれているが、ご主人はもう何年も前に亡くなったとのことだった)
この奥さんが、やはり当時から近くに住むピアノを教えている女性の家に一緒に行ってくれ、合わせて二人の方から直(じか)に話を聞くことができた。 更に最初に訪れた家の奥さんは、私が埼玉から尋ねて来たことを告げると、できるだけのことを伝えてやりたいと言って、当時のことを知っていそうな近くの方の家に足を運んだり、電話をかけてくれたりした。
 そうした好意にも恵まれて、色々なことを知ることができた。
まず、悩ましい「円谷」の読み方についてだが、皆「えんや」と呼んでいた。当ブログ『「アドニス」「同好」「薔薇」の中の円谷順一』の「追記」に書いたが、当時の枚方の電話帳を調べ、その並びから「えんたに」だろうと私は推測したのだが、覆(くつがえ)されたことになる。近所の方が長い間「えんや」と呼んでいたのだからこれが正確だろう。(ピアノを教えている女性も言っていたが、電話帳も必ずしも厳密に五十音順に並べられているという訳ではないようだ。特に当時の物は)
 二転三転したが、私が所持しているネガフィルムのケースに書かれている「エンヤ」が正しかったことになる。
名前の件以外に知り得たことがいくつかある。円谷は「サンフォトラボ」という写真店を経営していたのだが、看板を大きく出して大々的に行っていたのではなく、ごくひっそりした形だったようだ。
 最初に訪れた家の奥さんの話したことだが、当時地元枚方の大きな病院だった厚生病院だったか、市民病院だったかに結核病棟があり、円谷は写真を持ってよく入院患者の元を訪れていたという。恐らく男の裸を見たい患者に自分の撮った写真を届けていたのだろう。患者にとっては、無聊(ぶりょう)を慰め、長い入院生活を支える力の一端になっていたのだろう。
円谷が癌で最後に入院したのも、これら二つの病院のどちらかだろうということだ。円谷の墓については分からないとのことだった。
 また、円谷がよく上京するのは、東京に女性を囲っていたからではないかと思っていたという。実際は東京で待ち望んでいる人々に作品を見せたり、撮ったスライドの上映会をおこなったり、写真の撮影や販売をしていたのだが。上京する時は、髪を整えるなど浮き浮きと楽しげな様子だったという。
 この女性の亡くなった夫も風景写真などを撮り自分で現像をしていたという。しかし、円谷とはほとんど言葉を交わすことはなかったということだ。通常だったら、関心を共にする者同士、会話が弾むところだろうが、円谷も自分がどんな写真を撮っているのか本当のところを口にできず、おのずから避ける風になったのかもしれない。
 円谷が亡くなる前に離婚した妻が、円谷の死後、住まいを訪れ、外から懐かしげに見ている姿を、この女性は目撃したということだ。
伊藤文学著「『薔薇族の人びと』−その素顔と舞台裏」(2006.7 河出書房新社刊)によれば(同様のことを伊藤氏から直接聞いたが)、札幌オリンピック(1972<昭和47>年2月)(円谷の死後4カ月ほど後になる)へ、コンパニオンとして行く途中の円谷の娘さんと、東京駅で間宮浩(2002年9月死去。享年72歳)と一緒に会い、円谷のネガフィルムを渡されたという。円谷の別れた妻が娘に依頼したのかもしれない。妻も娘も夫や父親がどういう写真を撮っているかを知っていて、彼女たちなりにその価値や意味を認め、失われるのを恐れたからだろうと私は思う。(面倒なものを早く始末したいという気持ちも幾分かはあったかもしれないが)(笑)

長くなってしまった。ピアノを教えている女性から聞いた事柄などは次回にまわそう。
ちなみに、上段左手の写真は、二日目に近くの禁野(きんや)橋上から撮ったもの。下を流れているのは天野(あまの)川。向こうの山並みは奈良県などとの境になると思う。写真手前の流れは、淀川に注ぐ。この写真に関連した事柄も次回以降に触れたい。
             (2010.11.8)
 

 


 

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
万博前の1969年頃は大学生で枚方市に下宿していたので円谷氏の晩年を追う話に大変感動しました。続の話を期待しております。
ラジオ
2010/11/09 22:17
久々のブログに次回が待ち遠しいです。
遠方
2010/11/10 01:01
コメントを寄せていただきありがとうございます。
円谷と同じ時期に枚方に住んでいたのですね。当時の街のたたずまいなど、実感として分かるでしょうね。これからも読んでいただけたらうれしく思います。
荻崎正広
2010/11/10 01:15
「遠方」さんへ
すっかり間が空いてしまいました。
これからも、見限ることなくお読みいただけたらうれしいところです。
荻崎正広
2010/11/10 12:57

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